2020年は益城町の仮設団地から
退去する引越しの手伝いで
益城町社会福祉協議会と
「益城町復興ボランティアセンター」
に関わり、益城町の生活再建に向ける動きのお手伝いをしてきました。
ようやく、民間団体としてのサポートが必要な引越しの終わりが見えた時、令和2年7月豪雨がありました。
4年間続けてきた被災地支援活動。
でもそれは、続けようと思って始めたことじゃない。
被災復旧事業で被災者を雇用し、被災地に賃金とスキルを還元しようと立ち上げた株式会社UQテック。
「ネット」の情報共有だけでなく、「ワーク」で協働できるネットワークが必要だと立ち上げた「みんなのボランティアステーション」。
くまもと友救の会で始めた支援活動以降、その時々で必要だと思ってやってきた事でした。
その間に、結婚し、子供が産まれ、離婚もしました。
4年間、前線で走って、そろそろ自分の幸せだけを考えていってもいいかなと思っていた矢先の水害。
益城町民が県南の方々に地震の際は凄くお世話になった。県南が水害で大変な時に、恩返しがしたいけど、再建したばかりで人のために動く余裕がない…そのような声を聞いて、益城町の支援団体として県南支援に動こうと思いました。
そしてメンバー数人の実家が被災した人吉へ。
新型コロナウイルスの影響でボランティア募集を全国に広げられない中、市内のあちこちで災害ゴミの「勝手置き場」が…。
九日町の札の辻駐車場には近隣から車を使えなくなった人々がどんどん災害ゴミを持ち込んできていました。
収集がつかなくなると判断し、分別しながら災害ゴミ仮置き場にダンプで搬出。同時に分別した状態での災害ゴミを引き受け、仮置き場までの安全で効率のいい搬出を担いました。
札の辻の途中に下新町の空き地に貯められた大量の災害ゴミについてヘルプ要請があり、「ロハス南阿蘇たすけあい」さんに札の辻を預けて下新町民地へ。
一体、どれだけの恐怖と不安、焦燥があったのだろう。結果論で「防げたはずだ」と言いきれない混乱があったと思う。
もはや、一民間団体がやる域を超えている。しかしそんなことは誰もが笑い話にしかしていませんでした。
「綺麗な人吉球磨に戻したい」
球磨村の数箇所の勝手置き場も撤去に行きました。
鵜口には橋が落ちているので片道1時間以上かけて運搬。人吉市や人吉社協だけでなく、球磨村とも連携し、災害ゴミの撤去に奔走した初期段階。
台風前に表に出していて風で飛びそうな災害ゴミを地点登録し、MAP上で共有し、何台ものトラックで回収に回ったこともありました。
災害ゴミ撤去が一段落し、家屋修繕のための内部解体に本格化しようという矢先、球磨村茶屋地区での膨大な二次災害ゴミの撤去依頼がありました。
膨大な数のボランティアさんと重機車輌。
そして多大な後方支援も受けてきました。
無我夢中で続けてきた支援活動。
東北震災で被災し、支援活動を続けてこられた先輩の言葉
「起こったことは最悪だけど、出会えたことは最高」
たくさんの仲間と出会い、仲間が仲間を呼び、輪が広がった。
時に、「なんで、ここまでやるんだろう」と自問する事がある。参加してきたボランティアさんも、きっとあったと思う。
けれど、4年間の支援活動を思い起こしても、始めから理由なんて付けてない。
ただ、目の前のことに二者択一で選択してきた結果だった。
結果を見て、理由はいくらでも付けられる。
今年はどうか、災害くらいは無い年になってほしい。
人々に選択肢を増やして欲しいとは願わない。
せめて、消極的な選択肢ではなく、積極的な選択肢の中から歩みをつけて欲しい。
誰もが、他者への配慮をもつ余裕がある世の中に。
「やらない善より、やる偽善」
年始から、前線で自分の余裕をすり減らす日々に戻ります。
担うことも、背負うことも決して簡単じゃない。
けれど「気負う」ことは安易にしてしまうものだ。
心身ともに健康を保ち、続けていこう。
そして、つまらないくらいに当たり前だった日常を取り戻すまで続けられたら嬉しい。
「また、必ず会おう。何事もなかったかのように。」
このろくでもない、素晴らしき世界。
今年一年がより良い年となりますように。